政治としての愛

ニック・サウスホール 

真下弥生訳

以下の文章は、2019年3月16日に東京外国語大学で行なったシンポジウム「政治としての愛」で報告されたものです。元の英文はこちらで読めます。

ふたたび日本を訪れる機会をいただき、シンポジウムを企画されたみなさんに感謝申し上げます。こうして旧友と再会し、新たな友人を作り、愛とケアについての意見を分かち合い、討議することが出来ます。愛の政治についてさらなる考察を深めるよう、時間と努力を注ぐべく力づけてくださったことに、深く感謝しています。私にとって、この問題はここ10年あまり、理論・実践面における中心的な関心事でした。愛とは何かという模索を、進歩的な社会運動や政治プロジェクトに関わる長い歳月の中で続けてきましたが、そのような場で、資本主義の恐怖、既存の社会との対立、政治的組織のマクロ形態に関心を寄せる人々と出会いました。そこでしばしばおろそかにされていたのは、個人間の関係や、今この場にいる人たちを集団として組織する際の、より思いやりのあるやり方でした。時が経つにつれて、私が人間同士の諸関係、いわば愛を通してより多くを得たいと望んでいたものと、政治を通して得たいと思っていたものとは同じなのだということが、はっきりと分かってきました。そこで、私は自分自身の哀しみ、また「哀しき戦闘性(sad militancy)」 (bergman & Montgomery, 2018) と名付けられたものから逃れようと試みてきました。つまり、よりよく生きる方法を整えようと努める人々に対し、過度に厳格で、容赦なく批判的であることからです。この政治的な旅路は、党派主義という伝統的な左翼文化を拒絶すること、いわば他人を非難・攻撃・取り締まろうとし、憎悪の持つ危険をより明確に認識し、得ることの出来ない純粋さや完璧さを求めて奮闘することからの決別でもありました。

 2012年、「危機とコモンズ」シンポジウムで前回日本を訪れた際には、私たちがいかに自分自身と他者とをケアするかということの重要性、活動家の燃え尽きの問題、セルフケア・個人の達成感・集団の取り組み・社会の団結との相関関係について述べました (Southall, 2013)。アレクサンダー・ブラウンとともに行った発表では (Brown & Southall, 2012)、今起きているグローバルな反乱が、自由、平等、そして愛を希求する政治プロジェクトをいかに生み出しているか探求しました。私たちの結論は、今生まれつつある民主的政府は、自治のネットワークと多様な社会的関係の上に建てられた制度が発展・拡張するにつれ「既に起きている(複数の)未来」を創造しながら資本を転覆させる力を持つようになる、それゆえに共産主義は、今もこれからもずっと、終わりがなくかつ新たに生まれ続けるものであり、現在進行形の未完成な複数のあり方でのみ実現され得るのだということでした。同様に、愛を求める闘争は、途切れることのないプロジェクトなのです。

 それにしても、愛とはいったい何でしょう? ある種の感じるもの、本能、感情、イデオロギー、情熱、プロジェクト、活動、それとも権力、煩悶、仕事、富、活動、必要なこと、欲望、意図、夢、幻想、ユートピアーといったものの一形態なのでしょうか? あるいはこれらすべてのもの、それ以上のものでしょうか? 私は基本的に愛を、互いを思いやる社会関係を創造・維持・開発するために奮闘することと定義しています。私の友人のひとりは、愛を「他の存在と、その存在がそれ自身のために発展することを尊重する行為」であるととらえています。愛とは単一のものではなく、さまざまな事柄の複合体です。このことは、愛の持ついくつかの問題を示唆しています。「われわれが愛しようと試みる時、実際のところ、一種類の努力を遂行しようとしているのではない。むしろ、時には互いに相容れない、さまざまなことを全範囲にわたって同時に行おうとしているのだ」 (Armstrong, 2001, 12)。 愛とは何かと想像すること―これが愛だと思い、そして愛について考えるということは、子どもの頃に学び、自分と何かとの相互の関係、私たちを囲む世界との関係を通して育まれていきます。愛すること、愛されるとは何かということは、社会と個人の歴史によって異なるものになるでしょう。愛とは何かという理解と信念は、私たち自身の変化、私たちを取り巻くものの変化、社会の変化によっても変わります。

 ナターシャ・レナードは、「重要な問いは、愛とは何ということではなく、愛が何をするかということなのだ。あるいは、もっと簡潔に言うのならば、私たちがそれで何が出来るかということなのだろう」と思索しています (2016)。悲観的な観点で愛をとらえると、愛は私たちを弱体化させるもの、無害にし、隷属させるもの、貧しく依存的にさせるものと考えられます。私たちには制御できないもの、避けようがなく抗しがたいものと考えられていることも少なくありません。愛の定義の多くは「自発性を強調」し、「努力や意図によるあらゆる要素の関与を認めることを否定」します。こうして、愛と私たちの労働の区別は「自分たちが再創造するように世界を形作る仲介者も力も、私たちは持っていないのだと匂わされる程度において」 (Lenard, 2016) 誤った方向へと導かれ、かつ保守的になります。ベル・フックスは (2000a: 4-5, 13) 、責務と説明責任をともなうものである以上、愛の発生とは行動であると唱えています。フックスは、スコット・ペックとエーリッヒ・フロムによる愛の分類、「意志、すなわち意図と行動の両者による行為」を援用しています。「また、意志には選択が内包されている。私たちは愛する必要はない。愛することを選択しているのだ」と。

 私はこれまでに書いた文章で、共産主義と愛を何度となく混成させています。どちらも自由、連携、そして互いを思いやる活動を伴うからです。しかし、毛沢東は (in Zizek: 2007) 「共産主義は愛にあらず。共産主義は敵を叩き潰すためのハンマーなり」と述べたと言われています。左派の多くは似たような見方で、資本主義者やさまざまな「階級の敵」への憎悪を動員し、別の左派を「修正主義者」「仲間割れの元凶」「支配階級の回し者」と、しばしば決めつけます。資本主義権力やその影響への憎悪というよりも、こうした個人に対する憎しみは、愛の成長を妨げ、芽を摘んでしまいます。その一方で、主観性には可能性や変革への契機があることを理解していると、あらゆる資本主義的主観性を、自分自身が内包しているそれも含めて拒否する手助けとなり、自身や他者を破壊的なまでに嫌悪することをも止められるのです。

 私の博士論文の中心課題は、現代の資本主義と階級闘争に関する発言でつとに知られる政治理論家、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの戦略的洞察についてでした。彼らは資本を社会関係としてとらえ、現行の資本主義の形態とは、入り組んだ社会政治的影響力の網の目の上に成り立つ、全世界的なネットワークの中で権力を組織している「帝国」であると説明しています。しかし、帝国の中にはより強力な力である「マルチチュード」、つまり自由・民主主義・平和、そして愛を求めて資本と対抗する集団的闘争を通して誕生する政治プロジェクトがあります。階級闘争を探求するにあたり、ハートとネグリは (2000) 、ミシェル・フーコーの「生権力」の概念を援用しています。フーコーは「権力は遍在」し、また「あらゆるところからやって来る」ものであるとし、人を締め付ける否定的な意味での権力と、肯定的な意味の可能性を与える生産的な権力とを区別しています。フーコーは「生権力」の概念を、資本の権力とは何かをとらえるために使っています。つまり、このような権力は国家を通じて行使され、しかも国家は、より分散・分権化した形態の支配が人々の生活・意識の深層・身体、そして社会関係を全面的に横断して、行きわたるよう手を貸すのだというのです。「生権力」の概念は、己の人生のコントロールを取り戻すことによって、人々が自らの手で自分自身を解放することについて理解する手掛かりとなります。

 ハートとネグリは (2000) 自律性にこだわりつつ、マルチチュードの現代社会運動の持つ最も重要な組織的特徴を、中央集権化した階級、指導者と代弁者の拒否、共同的意思決定、対等で親しい集団の存立を挙げています。ここで自律の概念が焦点をあてている権力の類型とは、取得したり分け与えたりするのではなく、人々がともに作る力であり、あらゆる人の自律、その人たちが持つ他者とのつながりを認め、支えるものです。革命的自治の実践は、資本主義の権力よりも、資本とその国家としての形態に、内側から、もしくは相対して、そしてそれらを超える形の闘争におけるプロレタリア的行為者の肯定をも含んだ自治、革命の発展に重きを置いています。マリーナ・シトリンは (2018)「自治は、運動と団体、そして個人との違いを区別するために使われてきました。われわれのために、または自分自身のために物事を決めるのです。党や政治家が、何をどのようにせよと指示するのを許すのではなく…自治は実践であり、ダイナミックなもので、イデオロギーでも理論でもありません。理論だと言ってしまうと、「生きた」ものが削がれ、実践性が薄れる危険があります」と述べています。資本や国家形態からの自律への闘争は、具体的な実践と、自分たちが作り出すものの形と内容を決める権力に基づいた政治にかかわるものです。つまり、私たち自身、私たちのコミュニティ、私たちの日常生活を整え、治める能力のことであり、何が価値あるものかと決める場のことです。

 こんにち、何が価値あるものかということをめぐっての議論は激しさを増し、政治としての愛の価値は、きわめて重要な闘争の舞台となっています。愛の政治的理解は、マルチチュードの力と、その力が資本に対抗し、価値を打ち消そうとする社会関係の強度からいかに湧き出でているのかを明らかにする手助けとなります。しかしながら、愛は社会闘争の重要な構成要素であると長らく認識されてきたにもかかわらず、政治的な議論や分析から抜け落ちていることは珍しくありません。愛を俎上に載せた考察の例を挙げると、エマ・ゴールドマンは愛を「生涯においてもっとも強く、もっとも深い要素であり、希望、喜び、法悦の先触れである。…あらゆる法、あらゆる因習に反逆し、…もっとも自由で、最も強力に人間の運命を形造るものだ」 (1911) と喝破しています。ロシア革命の最中、アレクサンドラ・コロンタイは、愛は「二人の愛し合う者だけの「個人的な」事柄ではなく、「深遠な社会的感情」であると主張し、同士関係と平等に基づく「愛-連帯」の価値を推進しました (in Ebert, 1999) 。

 1960年代、マーチン・ルーサー・キングJrが公民権運動を、愛のパワフルな形であると表現したように、愛の政治的概念が花開きました。「不屈の確固たる愛は、怨恨と憎しみを拒絶し、あらゆる不正義に対して動かされることがない」(Vincent Harding in Morgan, 1991, 39) 。チェ・ゲバラも「真の革命家は強い愛の感情によって導かれる」 (1965, 211) と書いています。政治としての愛についての新たな理解は、1967年の「サマー・オブ・ラブ」でもはっきり示されました。「サマー・オブ・ラブ」の政治は、権威主義、階級、代理制の拒絶を促し、平和、公民権、当時の革命運動を浸透させて、1968年の諸蜂起の発生を後押ししました。愛が政治的組織化のひとつの原動力になるとともに、既存の体制および伝統的左翼の双方に決裂を起こし、資本主義との抗争の拡大につながりました。しかし、革命的愛の実践は、資本主義国家の体をなしているものに、単に要求を突き付けるよりも、むしろよりはっきりと、それらに疑義をはさむようになっていきます。真の民主主義を求める60年代の闘争は、カール・オーグルスビーが分析するように「(愛を)脅かし、阻むものを、社会から」取り除くことによって、「愛をさらに可能なものとする」闘争だったのです (in Morgan, 1991, 94)  。

 それから数十年にわたって、愛は政治的闘争の主要な関心事となりました。家父長的・同性愛嫌悪的な愛への制約の拒絶もその中に含まれます。フェミニストおよびクィアの運動は、個人間の関係とケア労働の重要性に焦点をあてることによって、政治としての愛の概念の普及を、「個人的なことは政治的なこと」という概念を通して促しました。より近年ではサパティスタが、自分たちの革命的闘争を愛の形であると明言しました。彼らは愛することを学んだことによって、孤立に対峙し、連帯者と国境を越えてつながることが出来たのです。「自分たちのやり方で抵抗し、戦う人たち」へのサパティスタのメッセージは「あなたはひとりではない」そして「われわれはあなたを愛している」でした (EZLN, 2005)。メキシコ政府との政治交渉に失敗した後、彼らは「自分たちはこれからどうするのかと、心の中をさまよった。そうしてまず分かったことは、自分たちの心は、闘争を始める前ともはや同じではないということだった。多くのよき人々の心に触れたことで、より大きくなった」のです。彼らはメキシコ政府の善意にすがるより、愛し、愛されることが出来る、自分たちの包容力に身をゆだねました。世界各地で闘争を続ける人々に、メッセージと物的援助を送り、多くの人々がそれに応答しました。サパティスタにとって重要だったのは、彼らの心が変化したことで「われわれの心はさらに傷つき、より深くえぐられた。悪い政府の裏切りゆえに傷ついたのではなく、人の心に触れ、その悲しみにも触れたからだ」ということに気付いたことだったのです。

 近年の政治における「情動的転回」は、政治的関心事として愛をとらえることを推し進めました。マリーナ・シトリンも、自治と直接民主主義についての現行の実験を、「連帯と愛」の上に成立する「情動の新たな政治」であると言い表しています。シトリンの著書『ホリゾンタリズム(水平主義)』でインタビューされている社会活動家たちは、こうした新たな政治を、自身の内外に存在する資本主義的主観性に抗い、手なずけ、粉砕しながら、他者と自分自身を愛し、敬意を払うことを学ぶ過程であるととらえています。このような情動的な政治は、直接民主主義が「個人の感覚、そして集団の感覚を変える」集団的仲介者を育む「愛と信頼のある場の創出」の中心に据えられています。こうした政治は「情動を生み出すという点において情動的であり、愛と支援があふれる基盤を創り出している」のです (Sitrin, 2006, vii)。このようなミクロ・マクロの政治の連関の理解は、連帯する集団―互いを思いやり、社会に前向きなインパクトを与えようとするそれぞれの努力の価値を認め合う人々の集まりの、長大なつながりの中心に位置するものです (Reynolds, 2012)。その集まりには家族、仕事仲間、友人、政治的連帯者といった人々が含まれ得ます。互いに思いやる関係と、互いの顔が見える、資本主義になり代わる生きた何かを、近隣、地域、世界中に創出する手助けをするネットワークを作り上げる人たちです。したがって、こんにちの気候変動に対する抵抗運動や平和運動が、愛ある環境の重要性を強調するのは驚くべきことではありません。テロリズムやヘイトクライムへの草の根の応答は、防御のパワフルな形としての愛を強調し、「ブラック・ライブズ・マター」運動は「黒人へのラブレター」で口火を切りました。「私たちは自分自身を愛し、黒人の命が大事にされる世界を求めて闘わなければなりません。黒人のみなさん、あなたを愛しています。私たちを愛しています」と (Sydney Peace Foundation, 2018)。

 愛を創り出すことは、分かち合いの実践です。そうした分かち合いを構想し、準備し、整える個人と集団によって作り上げられます。アン・オークリーは、「何かを愛する経験をした人々が体験する並々ならぬ親密さは、大きな政治運動に参加した時の感情と似ている。自分が知覚する世界が拡張し、より激しさを増し、人間同士の境界線が霧散し、人間によくある利己主義が、尋常ならざる利他主義へと取って代わられるのだ」 (1986, 140) と述べています。このような解放の瞬間は、より徹底的に、互いに愛し合うことを可能にしてくれます。もうひとつの社会の在り方を「生きられた経験」を通して知ることで、規範、価値、思い込みを、自分の利害にまつわるものから、階層と人類の利益にかかわるものへと変換するのです。人は互いに親しくなると、「資材、知識、ものごとのやり方、文化の形、経験、音楽の伝統といったものを分かち合うことに長けていくようになり…人の暮らしとコミュニティを豊かにし、創造性の新たな地平を開き、交流を深め」ていきます (De Angelis, 2007, 153)。 進歩的な社会運動は、多様性と公共の活動に開かれた、情動的空間の創出を通して、さまざまなタイプの対人関係を生み出します。ベル・フックスが言うように (2003, xviii)、社会運動は戦略的な理由で人々を集めているのではなく、運動による人の集まりそのものが、人間の想像するものの核にある願望―自分自身をコミュニティの中に位置づけ、自分たちの生存を共同作業とし、自分たちと、自分たちを生かしめる地球とのつながりの中で、尊重される実感を得たいと希求することの実現なのです。

 にもかかわらず、愛は曖昧であるゆえに、さまざまな関係に生じる揺らぎを顕わにします。何かを愛することにともなう脆弱性は、弱さの表れであると見なされてきたことにもその一因があります。ですから、政治としての愛について考える時、力の一形態として愛をとらえることが手がかりになるでしょう。たとえば、カール・マルクスは「愛は愛を生み出す力だ」と述べています (in Fromm, 1960, 25) 。エーリッヒ・フロムは、愛は人々の仲立ちに依存する「生産的指向」を必要としていると唱え、マルクスに同意しています。愛を弱さととらえる人々は、思いやる関係が社会条件をいかに変革するかとは考えません。愛による前向きな影響を見過ごし、愛や思いやり、連帯の働きが、前向きな進展をいかに創り出すかを無視します。愛は偉業です。私たちが、個人としても集団としても創り出す何かであり、また、愛はたいへんな仕事でもあります。しかしながら、「仕事」を愛との関連で論じる時の大きな障壁は、資本による、また資本のための再/生産に限定された意味で使われがちな言葉であり、もうひとつの生き生きした在り方を構築するという仕事―愛による仕事―が見逃されるということにあります。

 人はケアワークを通して、愛の力を人間のニーズと欲望を満たすために積極的に生産し、自分と他者とを肯定することによって、資本の道具として機能し、社会的生物として生きることの両者を経験します。ケアワークが賃労働である場合、その労働者の人間関係を作る能力を賃労働者が売り、依頼者および/もしくは上司から実行するよう命じられるという点において、きわめて殺伐としたものになり得ます。自分たちのしていることを愛し、働く情熱を見出すべきだと、ますます期待をかけられます。けれども私たちの多くは、自分たちの有償労働はどんどん満たされなくなっていると考えています。上司や官僚機構のために働き、人より抜きんでるために情け容赦なく闘争した末、最も大切なこと―愛する人々と愛する技を学ぶこと―へと向けるエネルギーを使い尽くし、愛するという自身の能力を埋もれさせてしまうのです。

 時間の政治と愛の政治とは深く相互にからみあい、自治の実践は、より短い労働時間、自分たちの人生の時間のコントロール、労働の拒否といった問題を巻き込んでいきます。労働としての愛の認識は、愛としての自分自身の労働を整理するために、資本から自分たちを解放するための階級闘争の重要性を示しています。エーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で (1960)、愛は技術であり、その技を学ぶにはふたつの方法、理論と実践があると唱えています。愛には数多くの実践とともに、理論的知識と実践の結果の融合が求められるのです。しかし、いかなる技術を学ぶにも、第三の要素―究極の関心事が必要であり、そこにこそ、人はなぜ愛の技術を学ぼうと努めるのかという問いの答えがあるのだとフロムは言います。愛を渇望する思いは人の心に深く根差しているにもかかわらず、成功、金、財産といった、愛以外の何かの方がより重要だと考えられがちです。フロムによると、愛は人々を完全につなげ得る唯一のものだと言います。彼は、今の時代の中心的問題は他者とのつながりの断絶であると考えており、愛は人間存在の鍵となる問題を解決すると確信しているのです。

 愛の労働の産出は不均衡なまでに女性が担っており、そのほとんどが無償で、その価値や力、ケアワークの影響が過小評価されていることは広く知られています。同時に、無益な仕事のために己の人生を犠牲にすることは、まさにそれを受けるべき家族への愛の行為なのだと、多くの人たちは信じています。愛は「女性の仕事」であり、女性はより愛する存在であると、広く受け止められているのです。「女は男よりも、関係やつながり、コミュニティに関心を寄せる」のだと言っても、女性が生まれながらにして男性よりも愛するように出来ているからではなく、「いかに愛するかを学習するよう奨励される」からなのです (hooks, 2003, xvii)。家父長制は常に、愛を女性の仕事と見なしてきたがために、愛の労働の地位を下げ、価値を落としてきました。フェミニズム理論は、ケア労働の価値の向上、社会全体に愛の力を拡げていくという課題に関心を注いできました。労働をジェンダー化して区分することへの抵抗闘争は、愛の仕事を分かち合い、他の形態の仕事との区別を粉砕し、ゆくゆくは、あらゆる仕事が愛の労働となることを目指しています。こうした闘争は今、女性たちの国際的ストライキ、MeToo運動、安全への移動、性と生殖の権利とケア労働、国境を越えた広がりを見せる、女性の自律とすべての人の解放にかかわる運動の一環の中で表明されています。

 愛を求める共産主義的な闘争に対し、資本主義は常に、思いやる活動に障壁を施し、マルチチュードの社会的ネットワークを粉々にし、愛ある社会的関係を暴力的に破壊してきました。このような状況は、他者を思いやるという私たちの能力が攻撃され、不満と怒りのはけ口が共感の危機へと変貌し、多くの人たちが思いやることを止めてしまうという、ますますよくあるパターンを反映しています。シルヴィア・フェデリーチは最近の著作で 、「社会的連帯と家族関係の破壊」、労働者階級コミュニティの分裂、そして「社会的紐帯の弱体化」(2019, 180-181)をともなう、彼女がいうところの「日常生活の危機」について思索を深めています。「こうした状況下では、人々の間を調停する、最も重要な場である日常生活の営みが挫折しかねない。多くの人たちがそうした場から逃亡し、対人関係はやりくりするのがあまりに骨が折れるとみなされ、維持することが出来なくなる。つまり、家族によるものにせよ友人によるものにせよ、ケア労働が提供されなくなり、子どもや高齢者にとってとりわけ重大な結果を招く」と。フェデリーチにとって、これは「ケア労働に献身する資源の劇的な凋落であると同時に、家族をはじめとする他者を思いやる仕事の凋落、ひいては日常生活の価値をさらに下落させるという意味において〈再生産の危機〉」であり、その日常生活とは「深い疎外、不安、恐れの感覚によって彩られ」ています。

 資本は反・愛的であり、絶え間なく貧困や飢餓、戦争、人間・コミュニティ・環境破壊を生み出すことによって社会的関係を暴力的に破壊しながら、社会的再/生産と協力を必要とする愛の社会的構成を侵食します。資本は、労働の社会性に依存すると同時に、商業化と搾取を押し付けるために暴力と抑圧を行使し、共産主義から自身を守ろうとするのです。労働実践における数々の変化、たとえばその増大化、臨時化、不安定化、流動化、放浪化、迅速化などは、マルチチュードが資本と自分たち自身のためのケア労働に割く稼働力に有害な影響を与えています。他者との物理的・感情的距離が離れてしまった人は、時間や金銭、資源、強いつながりや愛ある関係を維持する社会的支援を持っていないことがしばしばです。資本は、人よりものの方がより大事にされ、何かとつながる情熱がものを所有する情熱に取って代わられる利己主義的な文化を推進する一方、私たちの愛する能力を消費するのです。

 ハートとネグリは、愛は長らく家族、企業、人種差別、大衆迎合主義、ファシズムによって腐敗せしめられ、支配者たちは愛を操作して、国家への愛、神への愛、君主への愛、指導者への愛を用いて当面の体制を守ると論じています (2009) 。昨今息を吹き返した右翼勢力は、「情動的転回」を政治に注ぐ能力を誇示し、その力を憎悪へと強力に動員しながらも、愛―アイデンティティや民族の祖先、文化的一体感の共有への愛に向かって結集しています。そして彼らは、コミュニティに属しているという感覚と一体感を、「あなたは愛するべきなのだ。ただし自分自身とあなたに属する人々だけを」というメッセージとともに差し出すことによって、怒れる人、孤独な人、疎外されている人々を首尾よくひきつけています。

 ジョージ・オーウェルはディストピア小説『1984』で (1949) 、未来の独裁主義における主要機関「愛情省」を通して、愛の政治について思索を展開しています。愛情省は支配体制への忠誠を、抑圧の圧倒的手段である恐怖と組織的洗脳によって強制します。愛情省の究極の目的は、ビッグ・ブラザーへの愛を一滴一滴と注入し、愛する人を裏切るよう人々に強制することです。これは多くの人が熟知している類の裏切りですが、人はその一方で、家族や友人は、金銭や仕事、財産よりも重要で価値があると思っているとも言いがちです。資本主義社会が、資本の蓄積や人々の労働と社会関係の支配において価値を見出しているものは、彼らの時間の過ごし方が示唆するところであり、人生の多くの時を競争と「生計を立てる」ことのしばしば無情なまでの追求に費やすよう、私たちを締め上げます。資本主義文化が私たちを分断し、引き離そうとする時、所有と支配の中心に愛を位置づけ、人を相互の所有物や競争相手として扱えと教え込むのです。資本主義が愛のない状態を育む時、商品や疎外された関係で愛への渇望を満たすよう唆し、そこで生産されるのは資本主義的商品を志向する資本主義的主観性、また資本主義的主観性に訴える資本主義的商品です。

 「日常生活の危機」に応答して、シルビア・フェデリーチは「私たち自身の生活を取り戻」そうと呼びかけ、さらに、私たちはいかに「私たちの生活の社会的構成を再構築し、家庭と地域を抵抗と政治的再構築の場へと変貌させられるか」 (2019, 183) と問いかけています。これらは今「人類の指針にかかわる、最も重要な問いの一部」なのだと。人々、関係、コミュニティ、そして社会運動にとってのケア労働の重要性を論じる中、フェデリーチ(2016) は 、資本とその国家形態が深刻な危機に陥っているギリシャを例に挙げ、人々が生き延び、資本主義に代わる生きた何かを創造する手助けをする、社会的連帯と支援のネットワークに注目しています。彼女はまた、そのような代替物を創造する際の女性の主導的役割を検討し、賃金や賃金闘争は今も重要でありながらも、資本からの自律を拡大し、私たちが作る富を本来あるべき場に戻すための闘争を称賛しなければならないと唱えています。今の社会の状況に関心を寄せる人々の多くは、伝統的政治や富の再分配について、自分たちが出来ることはそれほど多くはないと思っています。その代わり、自分たちの生活の中で、まだ変化を起こせると思える領域に照準を合わせます。いわば家庭、コミュニティ、「職場」といった、個人や現場、相互のニーズに直截に取り組み得る場、自分たちに何かが出来、人を思いやり、思いやることが尊重される場における社会的関係を変化させるのです。こうした活動は、日常生活を日々あらためて作るための複雑で活力あふれる集団的過程を経て、型にはまらない新たな主観性の豊かさを生み出す、さらに広範に広がる政治プロジェクトの一部なのです。

 政治的闘争の舞台は社会のすべての場にあります―ですから、社会的な組織能力は、政治的な組織能力と同じです。マルチチュードがコミュニケーションと協働の力を増大させ、愛ある方法で行動することを学ぶと、自律、相互依存、共通性を、生産的で相互につながりのある、情動あふれる国際的コミュニティとして肯定します。これは長期的な政治的変化のための強力な基盤であり、愛ある関係は資本主義の存在にもかかわらず、ないし対抗・超越しようとも、私たちの生活を生きる価値があるものにします。愛が拡張すると資本の力は弱体化し、愛することを容易にして、自分たちを組織するという、人ならではの集団的能力を高めます。解放への闘争は、人間と人間以外の生きものの世界を、相互の連関、ケア、互いに呼応し合う変化の中で同等に見つめつつ、生物多様性と愛ある環境の創造の保護と包括に大きな関心を寄せています。人間の進歩と快楽は、生産性や消費に価値を置く経済指標によって測ることが出来るという見方に基づいてなされる開発に、マルチチュードの愛は抵抗、拒否し、乗り越えます。愛は共産主義的な生政治関係の中においてのみ、経済的な形での価値としてではなく、人生の質、生きとし生けるものの幸福として、真に尊重されます。愛し方について無知であることは、いかなる革命的政治指針においてもきわめて深刻な障壁となります。反・愛的な資本と戦う時にはマルチチュードの許容力―愛あるやり方で行動し、家族の中に、友人たちとの間に、コミュニティや社会的繋がり、そして運動のすみずみに愛を創り出す力―がなくてはなりません。今、愛を社会開発と政治の変革の力として推進する、国際的な運動が興っています。ともに活動することで、私たちは既に新たなコミュニティの一部となるのです。愛の革命として、私たちの自律、組織する力を強め、自ら決断を下し、非資本主義的な社会を作るために闘争するコミュニティの一部に。

参考文献

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